わが家にはNGワードがあります。
僕が子どもたちに「この言葉だけは使うな」と言ってきた言葉です。
それは「死ね」「殺す」の生命にかかわるものと「どうせ」という希望のない言葉です。
今の子どもたちはバーチャルな体験で何度もやっつけたりやっつけられたりしています。
格闘ゲームや戦闘もので平気に殺したり殺されたりしているので「殺せ」や「死ね」という言葉が普通に出てきます。
なので兄弟喧嘩のときにもつい簡単に「死ね」という言葉が出ます。
その都度子どもたちに「そんな言葉を使うな」と言ってきました。
君たちに死んでほしくないし、殺されたくないし、殺してほしくもない。
だから、そんな言葉は使ってほしくないと何度も言い聞かせてきました。
そして、同じく「どうせ」という言葉も使わないように言ってきました。
どうせという言葉には「自分なんか」や「努力したって」という失望の言葉が続きます。
その言葉「どうせ」を発した時点で希望や努力する意思を放棄してしまいます。
だから、その言葉は使わないでほしいと子どもたちに伝え、僕自身も使っていません。
言葉には不思議なもので口にすると元気が出る言葉もあれば、逆に気持ちが暗くなったりする言葉もあります。
自分の口から出た音声である言葉は自分の耳から再び自分に入り、様々な影響を与えるのだと思います。
だからこそ、人を不幸にしたり自分がマイナスのパワーを得る言葉は使わない方がいいと思います。
音声ではありませんが、文字でも同じことが言えるでしょう。
ネットでは匿名性の高さゆえに過激な中傷がおこなわれたりすることも少なくありません。
「タヒ ネ」とか「ネ申」などカタカナを使った特有の表現などもあり、その独特のルールを楽しんでいるのかも知れませんが、やはり意識的に相手を不愉快にさせようという言葉は見ていて心地よいものではありません。
ヤジやネットでの暴言で失敗をした議員も少なくありません。
でも、それは議員であるとかいう以前の問題です。
一市民であっても、相手が誰であっても言うべきでないことは言うべきでないし、使うべきでない言葉は使ってはいけないのです。
最近は言葉狩りのような風潮もあって「○○屋さん」という表現も蔑称にあたるので使うなという指摘もあります。
あまりに神経質になりすぎるのは息苦しいと思いますが、最低限のモラルは必要だと思った先日の出来事でした。
今日は和歌山で党の会議があり、久保ひろつぐ議員の車に同乗して行きました。
助手席に乗っていただけではありますが、2日続けての和歌山は遠いと感じました。
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