劇団きづがわの『歌わせたい男たち』を観てきました。
タイトルからもわかる通り、卒業式で「君が代」を斉唱させようとする校長や教師と不起立を貫こうとする教師とのやりとりをコミカルかつシリアスに描いた作品です。
原作は永井愛で2005年と2008年に劇団「二兎社」が全国公演したものを今回は完全に大阪弁にリニューアルし、大阪で起こっている教育基本条例の現状を折り込んでの舞台となっている。
歌わない者には歌わない者の、歌わせたい者には歌わせたい者のそれぞれの論理があり、それぞれがお互いを批判し、恫喝し、説得しようと試みるが物別れに終わる。
舞台の最後では「内心の自由」について、「たとえ歌っても内心で歌いたくない、敬意を表したくないと思うのは自由であり、それが内心の自由。行為にあらわしたらそれは内心ではなくなるので、そこまでの自由は認められていない」と校長が演説する。
僕も卒業式や入学式で不起立を貫いてきた身として、色々なことを思い出したり、考えたりしながら観させてもらいました。
僕が君が代を歌わないのは、あの侵略戦争のシンボルだったからであり、解釈をいくら無理やり変えようと天皇を賛美する歌に他ならないからです。
この歌を聞くことによって不快に思う多くの外国の人がいること。
未来ある若い人たちの命を奪うための意気高揚に歌われてきた歌を、子どもたちの新しい出発の日に歌いたくないと思うから僕は歌いません。
また、歌わない自由もあるということを伝えたいという思いで着席し、黙って聞いています。
劇を見ながら感じていたのですが「歌わない」「立たない」というのは非常にエネルギーが必要なことです。
卒業式、入学式はもちろんのこと、成人式や戦没者慰霊祭などでも開式時に国歌斉唱がおこなわれます。
このときに「立ちたくはない」でも「立たない」ことに費やすエネルギーが負担で、式そのものへの出席が億劫にさえ思えてきます。
ただ単に「立たない」「座っている」わけではないのです。
そしていつも「なぜこんなことを強制されなければならないのか」「なぜこんなにしんどい思いをさせられなくてはならないのか」と思いながら座り続けています。
今日の劇は結論的に何かを押し付けるものではなく、そのことについて考えさせてくれるきっかけを与えてくれるものでした。
立つにしても立たないにしても、この問題について一人でも多くのみなさんが考えてくれたらいいなと思います。
観劇を終えて、少しだけ由女賀・友歌と天王寺でショッピング。
高校時代は自分の庭のように闊歩した天王寺も様変わりしてしまい、迷子になりそうでした。
時間があまりなかったので自分の買い物は出来ず、少し残念な大阪行きでしたがさよちゃんの同窓会も楽しかったようで所期の目的は達成されたようです。
明日から年末に向けて総決算の2週間です。
気合を入れなおしてがんばります!
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